1970年代初期の尖閣諸島問題と台湾の世論

                     

王 偉 彬

 

目    次

はじめに

一,尖閣諸島周辺の天然資源問題と領有権問題

二,大陸棚条約の「保留条項」と「自然延伸原則」等に基づく領有権主張

三,台湾当局による尖閣諸島の主権声明

終わりに

 

は じ め に

2010年9月尖閣諸島(中国名:「釣魚島」;台湾名:「釣魚台」。以下同じ)周辺で起きた漁船衝突事件、特に20129月日本政府による尖閣諸島の国有化と中国側の大規模な反日デモの後,両国関係が1972年国交正常化以後最悪の状態になっている。

日本政府は,1895年に国際法の先占の原則に基づき,尖閣諸島を日本領に編入したので,領有権問題は存在しないと主張しているが,中国政府は,日清戦争中に中国の敗戦に乗じて日本がそれを盗んだと主張している。双方が激しく非難し合う状態になっている。

 

尖閣諸島の問題について,様々な議論が存在している。政治・経済・歴史・軍事戦略等の分野から論じるものが多いが,なかでも,これまで,史的文献や法的根拠に基づき,尖閣諸島が日中のどちらに所属するかに関する議論が多く行われ、また、日中国交正常化の際に中国が主張した「棚上げ」方式について中国政府と日本政府のとの間に合意があったかに関するものも少なくない。

尖閣諸島問題は,日中両国の問題として注目されているが,もう一つの当事者である台湾側[①]の議論があまり聞こえてこない。或いは,議論があったとしてもほぼ存在感の薄いものであるといってもいいであろう。

地理的状況から見れば,尖閣諸島が中国大陸や日本の沖縄本島より台湾に近い存在である。当諸島は,台湾北部の基隆市から約₁₉₀キロ(台湾の彭佳嶼[②]から約140キロ),中国の東部沿岸から約330キロ,沖縄本島から約410キロ(沖縄県石垣島から約170キロ)に位置する。最大の面積である魚釣島(中国名:釣魚島;台湾名:釣魚台)は3641.98平方メートルである。尖閣諸島は,日本では沖縄県石垣市に属するが,中国及び台湾では台湾の宜蘭県頭城鎮[③]に属するとしている。

また,経済的な視点から見れば,尖閣諸島は,その周辺の海域が豊富な漁場であるので、台湾漁民にとって最も経済利益に関わるところである。

しかし,1960年代半ばぐらいまで,尖閣諸島が特に注目されたことはない。1960年代末期まで,台湾当局(及び1949年まで中国大陸にあった中華民国)による尖閣諸島に関する公式的な見解表示が見当たらない。

1968年,尖閣諸島で台湾の沈没船解体等作業中の台湾人45人が琉球政府[④] に不法入国として退去させられた。翌年の19695月 ECAFE(国連アジア極東経済委員会)が尖閣諸島海域を含む東シナ海海域で豊富な石油が埋蔵されると発表した。その後、尖閣諸島が注目されるようになった。

1969年717日,台湾当局が尖閣諸島に関する声明を発表した。その内容は台湾海岸に隣接する領海外の大陸棚に存在する天然資源に対する主権行使というものである。翌年の518日,中国の『人民日報』が尖閣諸島に関する主権所有の論評を発表した。その後,尖閣諸島の領有問題をめぐり,日本と中国・台湾の間で争うことになっている。

上記,1969717日台湾当局発表の台湾海岸に隣接する領海外の大陸棚に存在する天然資源に対する主権行使の声明が,これまで公表された関連資料の中で,1960年代末までは台湾当局による尖閣諸島周辺天然資源の主権に関する最初の公式表明であった。この際の主張は,天然資源に関するものであり,領土問題に関するものではなかった。

他方,1970年代初期,台湾のマスコミ,とりわけ新聞界が尖閣諸島周辺の天然資源の所有権や尖閣諸島の主権問題に関する社説や有識者たちの論評を多く掲載した。日本,中国及び台湾が尖閣諸島問題で争っているこの敏感な時期に,台湾の世論がどのような論評を出したのか注目すべきであるが,実際、これまでそれがほとんど注目されていない。

本稿では,この時期における台湾の新聞界をはじめとする世論が,尖閣諸島問題についてどのような議論を行ったか,またそれが台湾当局の政策決定にどのような影響を与えたかを検討したい。

 

一,尖閣諸島周辺の天然資源問題と領有権問題

1960年代半ば頃まで,尖閣諸島が静かな存在であった。その後,尖閣諸島をめぐる情勢が急に変わっている。

次は、1960年代半ば以後尖閣諸島をめぐり様々な動きであった[⑤]

1966527 ECAFE(国連アジア極東経済委員会)所属の CCOP(アジア海域沿岸海底鉱物資源共同調査委員会)が発足
19676 日本東海大学新野弘教授と米国 Woodshall 海洋学院 Emery 教授が『中国東海と朝鮮海峡海底地層と石油の展望』報告書を発表し,東海に豊富な石油がある可能性を指摘
19688 琉球政府が南小島で台湾のサルベージ業者が沈没船解体等作業中の台湾人45人を不法入国で退去
19681012日-1129 米・日・韓・台等の代表が参加した CCOP が尖閣諸島海域を含む東シナ海海域の海底を調査
19695 沖縄県石垣市,尖閣諸島の行政管轄のために尖閣諸島₅島に標識を設置
19695 バンコクにおいて ECAFE が尖閣諸島海域を含む東シナ海海域で豊富な石油が埋蔵されるとの報告を発表
19695月-7 日本総理府,第一次学術調査団(団長新野弘教授)を派遣,尖閣諸島海域地質調査
1969717 台湾当局が台湾海岸に隣接する領海外の大陸棚に存在する天然資源に対する主権行使の声明を発表
1969829 日本防衛庁,防空識別圏 ADIZ の飛行要領を設定,₉月₁日施行(なお沖縄列島・尖閣諸島は当時米軍管轄)
1970518 『人民日報』が「佐藤反動政府は我が釣魚島等島嶼を併呑して新しい手口を弄する」という論評を発表。
19706 琉球政府,久場島に対する巡検実施,不法入域者₁₄名に退去命令
197079

10日

琉球政府,北小島で領海侵犯の名目で台湾漁船に対し退去命令
1970711 琉球政府,魚釣島に上陸の台湾漁民,黄尾嶼沖で作業中の台湾人に退去命令
19707 台湾当局が米国のパシフィック・ガルフ社に石油探査権を付与。87日,当該会社が地質調査開始を声明
1970710 愛知揆一日本外相が参議院沖縄・北方領土問題特別委員会で台湾の措置は無効と言明

 

台湾が1969717日の台湾海岸隣接領海外大陸棚の天然資源に対する主権声明を発表した後,しばらく目立つ動きはなかった。一年後の19707月,台湾が米国のパシフィック・ガルフ社に石油探査権を付与し,翌月当該会社が地質調査開始を声明した後,日本は台湾の措置が無効だと反発し外交ルートを通じ台湾に覚書を渡した。それに対し,台湾が慎重に検討していた[⑥]

一方,台湾の世論,特に新聞界が,率先して動き出した。1970813日,『中国時報』(台湾の民間紙)が「政府が立場を堅守,理詰めで反駁すべきだ」という社説を発表した。

 

「愛知揆一日本外相が先日参議院で,“我が政府は正式に中華民国政府に如何なる一方的な釣魚島諸島及びその沿岸の浅い海域の権利主張は,国際法上,無効である”と表明した。(中略)また,日本政府は,中華民国政府のこの行動(米国のパシフィック・ガルフ社に石油探査権を許可したこと――筆者注)に非常に注目し,日本政府の立場を正式に中華民国に通知したといっていた。(中略)

本紙の昨日の独自の報道によると,外交部(外務省――筆者注)の消息筋により,先月,日本駐中華民国大使館から,釣魚台諸島附近の大陸棚が日本の領海権範囲以内にあるので,我が政府に正式に書面の覚書を提出されたそうである。当該覚書は内容や言葉遣いが相当に強硬的なものであり,我が政府は当該諸島附近の大陸棚を一方的な主権要求をしてはいけないと再三強調した。当分,我が政府は日本側のこの主張について,尚研究討論の段階にあるようである。(中略)行政院は外交,経済,国防,司法,行政等部の代表及びその他の関係者を呼び,専門研究グループを作り,慎重に検討の後,日本政府に返事する予定である。

周知の通り,台湾付近海底の油田探査は,政府の近年経済開発の重点の一つである。先日初歩的な探査が既に終了し,結果として,台湾から韓国の間の海底に,一連の継続的,平行的な稜線が繋がっていることが分かってきた。これらの稜線は大陸の黄河と長江から排出されていた大量の沈殿物により構成され,厚さはだいたい2キロメートル以上,おそらく世界の石油貯蔵量の最も豊富な鉱区の一つであろう。

(中略)

我が政府(台湾当局――筆者注)は,このため,昨年717日に次の声明を正式に発表した。“中華民国は1958年国連海洋法会議通過の大陸棚条約の調印国である。天然資源開発のため,当条約の定めた原則により,中華民国は,中華民国の沿岸,領海以外の海底とその海底の下の全ての天然資源を主権上の権利を行使することができる。”

この声明を正式に発表した後,日本政府から異議を表明されず,我が国が友邦との合作により,大陸棚の石油鉱蔵探査を大体完了し,開発企画をしようとした今日に,初めてこの権利主張を提出された。このような行為は,利益に目がくらんで正義を忘れる(见利忘义――筆者注)ような感覚を与えさせられざるを得ない。(中略)

この件は利害関係に関わる部分が小であるが,我が国の主権及び国際共同遵守の原則が甚大である。我が政府当局は立場を堅守し,理詰めで反駁すべきだ!」

この社説の外に、『中国時報』が同じ日に“常勝君”の「釣魚台主権と大陸棚公約」の長編論評を掲載した。当論評は,「大陸棚公約を早急に批准しよう」,「我が国は領土野心を有せず」「琉球地位は未確定」「領海以外干渉権なし」「日韓会議で討論されたそうだ」「加速開発は心配なし」といった6節に分けて論述されている。論評の主な内容は次のようなものである。

我が国において、経済的、法理的な問題で中(中華民国)日両国,さらに韓国を含む北東アジア防共の情勢に阻 害的な影響を与えたくないため、一向発言を控えているようにしているが、基本的な立場は行政院の声明の中にはっきり表しているので、根本的な変化はあり得ない。先日、相手国が公にこの問題を表明したので、今なお黙っていくにはいかない。

大陸棚条約に調印してから12年も経っているが、まだ批准していない。一日も早くこの国際上 にすでに有効となっている条約の批准手続きを完了し、法理上の根拠を手に入れておく。

大陸棚条約により,石油開発権利を有する台湾は開発を加速すべきだ。我が国は、これらの孤立的、海面に突出した8つの珊瑚礁に領土的野心を持っていない。海底にある石油資源の発見がなければ,日本が琉球の統治権を取得する前に,いくつかの米軍の射撃場の小さい島の主権を主張しなかっただろう。現在,日本が公に釣魚台の主権を主張する目的は,先入観にとらわれるように,その附近の海底石油開発権の取得であろう。ただし,国際法及び事実上,多くの疑問が残されている。(抜粋)

 

この時点,上記の台湾の『中国時報』の社説と同日の“常勝君”の論評は,主として尖閣諸島周辺の天然資源である石油開発の権利に関して論じたものである。“常勝君”の論評が「海面に突出した8つの珊瑚礁に領土的野心を持っていない」と強調し、尖閣諸島について、島ではなく「8つの珊瑚礁」という認識持っていたようだ。日本側の主張について、「海底にある石油資源の発見がなければ,日本が琉球の統治権を取得する前に,いくつかの米軍の射撃場の小さい島の主権を主張しなかっただろう」という文面から、当該論者は尖閣諸島に関する日本側の情報をほとんど把握していなかったといえる。

上記の論評が掲載された翌日と翌々日(197081415日),『中央日報』(台湾の中国国民党機関誌)は,“楊仲揆”の「釣魚島諸島問題」の長文論評を掲載した。当論評は,尖閣諸島の地理状況,中国と琉球交流の文献,日本の文献,日本人の企図,一方的標識の設置等の点から尖閣諸島が沖縄のものではなく,中国のものであると述べている。主要内容は次の通りである。

1534年(明の嘉靖13年),尚清王の冊封正使として来琉した陳侃によって記録された初の冊封使録『使琉球録』及び1708年(清の康煕47年)程順則が福州―琉球間を往来する航海法等関連の情報が記述されている『指南広義』の中に、尖閣諸島に関する記述があったことを述べ,尖閣諸島は,中国に属するものであり,琉球に属するものではない。

②明治10年出版の『沖縄志』付属地図や12年出版の『沖縄管内地図』には尖閣諸島が含まれていないこと,大正16年出版の『沖縄県治要覧』には尖閣諸島の記録がないこと,また,暦年の『沖縄県物産検査所年報』,『1965年臨時国勢調査報告』,『日本沖縄宮古八重山諸島地質見取図』,国会図書館所蔵『琉球統計』(沖縄県八重山島役所調査)等にも尖閣諸島が言及されていないことから,尖閣諸島は中国のものであり,琉球のものではないことを確認できる。

③日本外交の資料をもとに,尖閣諸島の沖縄県への編入過程にも触れた。即ち、明治28年が日清戦争の最中,ちょうど中国敗戦の年であったことに注目すべきだ。

④明治28年以後,尖閣諸島への移民を試みたが,逆風,逆流,台風等の自然災害で挫折した。明治30年,古賀辰四郎による尖閣諸島での開拓事業と数十名の労働者が尖閣諸島へ移住したが,その後撤退した。昭和初年の古賀辰四郎の息子である古賀善次が島において漁業関係の工場を開設し,海鳥に関する事業を経営したが,成功していなかったようだ。ただし,古賀善次氏は今なお当該諸島の所有権を主張しているそうだ。

⑤日本人が上述した種種の密かな試みをしている。移民したが村にはならなかった。このような様々なことがあったにもかかわらず,琉球八重山等の行政文献には,戸籍統計,物産統計などに関して何の記録も残されていないようだ。

⑥日本人による尖閣諸島での各種の試みは全て失敗したのが,自然法則に背を向けたせいである。台湾の漁民は歴史的慣習により自然条件に順応し,尖閣諸島での各種の営みをやめることはなかった。従って,事実上,古代から今日まで,自然に長期的に当該諸島を領有するものは,闽浙台(闽は中国の福建省の別称,浙は中国浙江省の別称,台は台湾を指す――筆者注)沿岸の漁民同胞である。(抜粋)

上記の814日と15日の『中央日報』に掲載された“楊仲揆”の論評は、813日の『中国時報』の社説と“常勝君”の論評より、その主張は一歩進んだ。即ち当該記事が,尖閣諸島の主権を主張するものになっている。

なぜこのような変化が起きたか。新聞紙のそれぞれの政治的立場(例えば『中央日報』は国民党の機関誌という性格)に関連するかどうかは不明であるが、それより、おそらく論評者が掌握の情報量の違いによる部分は大きいではないかと考えられる。ただし,この時点の尖閣諸島の主権に関する主張は,初歩的なもので,十分の論拠を示されたとは言えない。

 

二,大陸棚条約の「保留条項」と「自然延伸原則」に基づく領有権主張

1970816日,『中国時報』が再び前掲論者“常勝君”の「大陸棚条約と“保留条項”」という論評を掲載した。主な内容は,台湾当局が『大陸棚条約』調印時に提出した「保留条項」の解釈と尖閣諸島との関連に関するものである。

中華民国政府は第六条第一項の大陸棚の境界線の規定について,次の点を主張している。

  • 海岸隣接及び(或いは)向かい合う二つ以上の国家は,大陸棚境界線の測定においてその国の陸地領土の自然延伸の原則に適応すべきである。
  • 中華民国の大陸棚の境界線の測定について,何れの海面からも露出した岩礁に影響されない。

この保留条項に基づき,台湾北部海底の大陸棚は台湾本島に隣接する(探査報告が裏付けられる)ので,我が国の領土の自然延伸の原則と一致すると認定でき,これにより境界線の画定ができる。(抜粋)

 

“常勝君”のこの二つ目の論評は,最初の天然資源権利のみの主張よりさらに進んで,大陸棚の境界線の測定や大陸棚自然延長の原則により境界線の画定といったことも主張するようになった。

1970824日の『中央日報』は,“呉恕”の「法理と事実 主権は我が国が所有」という文章を掲載した。著者は,『大陸棚条約』と中華民国の「保留条項」に基づき,尖閣諸島が台湾の大陸棚に所属する法的根拠になっていると指摘している。

「立法院は,本日,最速で,『大陸棚公約』を通過し,明確に中華民国が沿岸大陸棚の天然資源に「主権上の権利」を有することを主張した。(中略)

専門家たちは,尖閣諸島附近の大陸棚が我が国の領土の延伸であり,海岸に隣接し,水深は200メートルを超えていないので,われわれが当然天然資源開発上に主権行使の主権を有すると考えている。(中略)

琉球群島附近には,一本の非常に深い海溝がある。それが琉球と大陸棚を切断するようになり,琉球には大陸棚がないということを専門家たちは指摘している。

このような主張を裏付ける根拠がある。19692月,西ドイツとデンマーク,オランダとの間に北海大陸棚についての紛争が生じた。当時もし中央線に基づき分割すれば,西ドイツが得られる大陸棚は一番少なくなる。しかし,事実上,北海大陸棚が西ドイツ領土から延伸していたものであるので,最後に国際裁判所は西ドイツを勝訴と確定した。それにより,領土自然延伸原則が確立された。(中略)

専門家たちの研究によると,尖閣諸島は,ただ我が国陸地延伸の大陸棚の上にある海面に突出した島嶼であり,それ自身も大陸棚の一部であるので,それにより日本が大陸棚の権利を主張することは理屈に合わない。」

この論評は,大陸棚と尖閣諸島との関係から尖閣諸島が台湾に所属するものと主張するものである。台湾の世論がさらに尖閣諸島の主権を主張する方向へ進んでいった。

『自立晩報』(台湾民間紙)は,同年828日,29日に署名“周士潔”の「尖閣列島は我が領土だ」とう長文論評を掲載した。論説は,次の部分に分けて力説した。

「日本人は利益に目がくらんで正義を忘れる」

「釣魚台列島の領土主権は,歴史,地理,法理方面のいずれから見てもすべて中国に属するはずであり,もともと問題は存在しなかったが,琉球及び台湾が560年間に日本に侵略・占領されたので,日本はとっくに釣魚台列島を日本版図に編入し,南部群島範囲内に所轄させ,「先宮」,「八重山」二群島と並列した。」(中略)

「本月10日,日本外相の談話発表以来,国内の報道記事には多くの論述が掲載され,『中国時報』の比較的詳細な報道記事以外に,その他の論述は、はっきりしないものが多い。本人は,琉球問題研究が₂₀年間,専門論文が₁₈本,琉球群島範囲を論述する際に,釣魚台列島を含めたことは一切ない。当該島は我が国に所属することは確実に疑わない事実であるからだ。」(中略)

「史的事実を抹殺することはできない。釣魚台列島は台湾とは一体であり,台湾・澎湖列島が中国に帰還した後,当然に中国の領土である。これは確実のことである。

長年,我々は人員を派遣し駐屯することはしていないが,歴史的記載によれば,昔から,それが我が国の漁区である。我が基隆・蘇澳の漁民がこのあたりを基盤として生活を維持してきたが,油田の発見で自分たちの領土における生存権利を失ってはいけない。更に,台湾・琉球が日本人に5060年間に侵略・占領された間に一方的に,南部群島内に編入されたから,これ(尖閣諸島の中国所有――筆者注)に疑義を生じるわけにはいかない。」(中略)

「我が政府は,昨年正式に領海以外に主権行使の声明を発表した後,一年以来日本が異議を表明せず,近日始めて権利を主張し,また慌てて810日に外務省設置の小グループ委員会において,領海外の大陸棚,深海範囲,

海洋法等に研究を加え,日本政府の統一見解としようとした。また,大陸棚公約の加入の研究等もしている。これらが大量,豊富な油田を発見した後に,利益に目がくらんで正義を忘れ(「见利忘义」——筆者注),足を差し込んできたことの証明である。」

  「我が国の領有権が国連から発信された記事に証明される」

       「釣魚台列島が,1895年(清光緒21年)日清戦争の後に,日本の侵略版図に編入された。この事実は,イタリアローマ平和新聞が本年14日に報道した。“これらの島嶼は,ずっと中国に所属し,1896年(1895の過ち)に日本に占領され,第二次世界大戦終了時に中国に返還された。これらの島嶼には居住する人がいないから,注目されなかった。今は油田の発見で日本がわざわざ(わざと)それが琉球の一部分といっている。尖閣諸島は中国大陸と琉球の間にあり,台湾に非常に近いので,明らかにアジア大陸の分水嶺以内にある。”この記事が国連本部から発信されたので,特に注目されている。(中略)

  「外部への表示はさらに明確にすべきだ」

   「我が大陸沿岸の“自然延伸”の地区は全部中華民国の領土であり,我が国の主権に属すべきだ。(中略)こ

の点について,外交部長魏道明が次のように表明した。“我が政府は釣魚台列島(日本で尖閣諸島という)に対するわれわれの立場を明白に日本政府に告げた。即ち国際法原則及び一九五八年調印の大陸棚公約に基づき,中華民国が台湾以北の大陸棚にある資源の探査と開発の権利を有する”。しかしこれだけでは十分ではないと思う。われわれは,「釣魚台列島が中国の領土主権に属する。日本が分不相応な要求をしてはいけない」と明白に日本に告げるべきだ。(中略)

  「本年14日のイタリアの平和新聞が(中略),また“国連がこの巨大な石油鉱蔵の報告を発表した後,琉

球の親日本当局が,台湾からの漁船を尖閣諸島群島水域から追い出し,日本にある米国空軍による当該地区

における巡視を支持し,この島へ接近する全ての船を阻止している[⑦]”と述べている。」(中略)

「当記事がまた,“極東の特別な政治情勢により,尖閣諸島問題において,アメリカが日本と協力し当該地区

の経済資源,特に巨大石油鉱蔵の開発について決意した”と論評している」(中略)。従って,ただ立場表明だけでは弱すぎそうだ。釣魚台列島の領土主権の不可侵を強く主張することと武力で守る決意を示す。」(抜粋)

 

上述した台湾の新聞に掲載された社説や論評は,19708月半ばから月末まで約半月間の一部の報道記事である(外に記事が多数ある)。これらの記事は、台湾が提出した大陸棚条約の「保留条項」という「法理」、大陸棚の「自然延伸」の原則、またヨーロッパーにおける大陸棚の紛争に関する国際裁判の事例と外国の報道記事を用いて、尖閣諸島が中国の領土であることを強調し、日本の主張を批判した。

 

三,台湾当局による尖閣諸島の主権声明

上記の新聞記事がいろいろな視点から論点を展開したが,その内容をまとめると,次のようなものになる。

  • 天然資源の権利を主張する議論

1970813日,『中国時報』の社説「政府は立場を堅守,理詰めで反駁すべきだ」と同日の署名“常勝君”の「釣魚台主権と大陸棚公約」の論評が,その論調である。

論評の中心内容は,1958年国連海洋法会議通過の大陸棚条約により,中華民国は,中華民国の沿岸,領海以外の海底とその海底の下の全ての天然資源を主権上の権利を行使することができるというものである。

  • 大陸棚の境界線の測定や大陸棚自然延長の原則により台湾と日本との境界線の画定に関する議論

上記の1970813日,『中国時報』の社説と“常勝君”の天然自然の権利主張の論評が掲載されて,わずか一日の後,翌日の814(及び15日),『中央日報』の署名“楊仲揆”の「釣魚島諸島問題」という論評が,天然資源権利の主張より一歩を前進し,尖閣諸島の主権を主張するようになった。また,816日,前記の“常勝君”とう論者が再び「大陸棚条約と“保留条項”」という論評を発表し,台湾当局による『大陸棚条約』の「保留条項」の解釈と尖閣諸島との関連により,「台湾北部海底の大陸棚は台湾本島に隣接する(探査報告が裏付けられる)ので,我が国の領土の自然延伸の原則と一致すると認定でき,これにより境界線の画定ができる」と主張した。

  • 尖閣諸島が台湾の領土である議論

1970824日『中央日報』の署名“呉恕”の「法理と事実 主権は我が国所有」という文章が,『大陸棚条約』と中華民国の「保留条項」は,尖閣諸島が台湾の大陸棚に所属するものの法的根拠となっている。尖閣諸島周辺の地理的環境構造,特に大陸棚という角度から,尖閣諸島が台湾領土の延伸であり,琉球群島附近には深い海溝があるので,琉球には大陸棚がなく,尖閣諸島自身が大陸棚の一部であるので中華民国の領土であると指摘している。

さらに,『自立晩報』の828日,29日の署名“周士潔”の「尖閣列島は我が領土だ」とう論評は,歴史,地理,法理等の角度から,尖閣諸島が中国に属すると主張し,これまでの報道記事の多くが曖昧であり,はっきりしないものが多いと述べ,自分の長年間の琉球問題の研究から,尖閣諸島が中華民国に属するものは疑わないと強調した。また,豊富な油田を発見した後の日本の対応について,「利益に目がくらんで正義を忘れた」と批判した。中華民国が台湾以北の大陸棚の資源を探査・開発の権利を有することだけではなく,「釣魚台列島が中国の領土主権に属する。日本が分不相応な要求をしてはいけない」と明白に日本に告げるべきだと強調した。「従って,ただ立場表明だけでは弱すぎる。釣魚台列島の領土主権の不可侵を強く主張することと武力で守る決意を示す」という所見を述べた。

1970年後半,尖閣諸島の主権をめぐり,また多くの動きがあった[⑧]

1970711 琉球政府が魚釣島に上陸の台湾漁民,黄尾嶼沖合で作業中の台湾人に退去命令[⑨]
・同年7 台湾当局,パシフィック・ガルフ社に石油探査権許可。87日,パシフィック・ガルフ社が地質調査開始声明。
・同年821 台湾当局立法院,大陸棚条約批准,大陸棚限界規定を決定
・同年825 台湾当局立法院,尖閣列島周辺の海域石油資源探採条例採択
・同年827 台湾国民大会代表全国聯誼会,釣魚台の中国領有を主張する決議を採択
・同年92 台湾水産試験所の海憲丸が釣魚台に晴天白日満地紅旗(中華民国の国旗)を建て領土主権を主張(同年915, 琉球政府が日本・米国両政府と打ち合わせ同旗を撤去)
・同年95 台湾当局外交部長(外務大臣)魏道明,立法院で「釣魚台など5島は国民政府に属する」と発言
・同年 9月10 琉球政府が尖閣諸島列島領有権と大陸棚資源開発主権を主張  
・同年 9月10 マクロ-スキー米国務省スポークスマンが「尖閣諸島は日本領土」と表明  
・同年921 台湾漁業組合,日本海上自衛隊が台湾漁船団の操業の妨害と抗議  
・同年928 台湾宜蘭県基隆市の漁業界,台湾政府に対し釣魚台群島海域に出漁する漁船の保衛を要請  
・同年930 台湾省議会,「釣魚台群島は我が国固有の領土」主張の決議採択  
・同年10 在米中国人留学生(台湾出身者がほとんど)が日本の釣魚台群島領有権の主張とそれに対する米国の同調に抗議するため釣魚台保衛行動委員会結成  
・同年1112 「日・韓・台三国連絡委員会」ソウル開催,東シナ海大陸棚石油資源の共同界開発で合意  
・同年12 九州大学・長崎大学探検部調査団の尖閣諸島合同学術調査隊が地質・生物調査  
・同年124 『人民日報』,「中国人民は米日反動派による中国,朝鮮の海底資源の略奪陰謀に反対する」という論評発表。米国の支持のもとでの佐藤政権による釣魚島群島の日本編入の企図を非難  
・同年1229 『人民日報』,「日米反動派による我が国の海底資源の略奪を絶対許さない」という論評発表。  
・同年1230 『北京週報』,釣魚島群島は1556年に胡宗憲が倭寇討伐総督に任命された当時,その防衛範囲にあったと指摘  

 

台湾の尖閣諸島問題に関する世論の高潮や1970827日台湾国民大会代表全国聯誼会のような釣魚台の中国領有を主張する決議の採択などは、尖閣諸島問題をめぐるムードを盛り上げた。197095日,台湾当局外交部長(外務大臣)魏道明が,立法院で「釣魚台など₅島は国民政府に属する」と表明した。現在の資料から見れば,これは台湾当局側の最初の主権表明である。

さらに,930日,台湾省議会,「釣魚台群島は我が国固有の領土」主張の決議を採択した。台湾の立法院ではないが,中華民国所属の唯一の「台湾省」議会の決議は大きな影響力を有することは間違いない。

翌年の1971年に入ると,尖閣諸島の主権をめぐる争いが新たな段階に入った。最大の特徴として,アメリカ,台湾及び香港で若者中心とした日本への抗議行動が起きたことと台湾当局による正式な主権表明である。

19701117日,日本の釣魚台群島領有権の主張と日本へのアメリカの同調に抗議するため,プリンストン大学で台湾の留学生が初の「保衛釣魚台行動委員会」を結成し,後に多くの大学で「保衛釣魚台行動委員会」というグループが発足した[⑩]

在米中国人留学生(台湾出身者がほとんどである。香港からの留学生もあるが,中国からの留学生はいない)が1971129日,サンフランシスコで集会・デモを行い,130日にワシントン DC,ニューヨーク,シカゴ,シアトル,ロサンゼロスなどでデモを実施し,各地の日本大使館・総領事館等に対し抗議デモを行った。最大で2,500人規模であった[⑪]

また,同年2月,香港の学生や若者が同様な抗議デモを行い,在香港日本総領事館文化センターに抗議文を提出した。

これらの抗議活動は,尖閣諸島の主権に関する日本の主張や日本による尖閣諸島で操業する台湾漁民への排除により刺激され,憤激した事情から生じただろうが,台湾の尖閣諸島に関する新聞の記事や論評に影響された部分も大きかったといえるであろう。

台湾島内の世論やアメリカ及び香港の学生と若者たちの抗議デモは,台湾当局へどのような影響を与えたかに関する資料は見当たらないが,当時テレビがまだ普及されておらず,インターネットもなかった時代では,新聞の影響力は絶対大きかったに違いない。

台湾当局の姿勢が徐々に強くなっている。同年223日,台湾外交部長魏道明が再び立法院で釣魚台は歴史,地理と現状のいずれから見ても中国の領土だと言明した。

翌日(224日)台湾当局は日本駐台北大使板垣修に釣魚台は歴史,地理と現状のいずれから見ても中国の領土だと伝えた。台湾当局が本格的に尖閣諸島の主権を主張するようになったが,ここに言及される「歴史,地理と現状のいずれから見ても中国の領土だ」というのは,まさにこれまでの新聞界の世論が主張する内容と同じであった。

同年4月,台湾当局がさらに動き出した。台湾外交部スポークスマンが,アメリカの尖閣諸島に対する日本よりの立場へ抗議する形で次のような声明を発表した。

「釣魚台は我が国領土の一部であり,中華民国政府は数回にわたって外交ルートを通じ米国政府に我が国の主権を尊重し,米軍執政終了後の時点で当該列島を我が国へ返還すべきだと求めた。国務省は我が方の要求に回答しておらず,突然当該列島を日本に渡すと声明したことに我が政府はとても理解しがたく,断固として反対する」[⑫]

これは,台湾当局による釣魚台の最初の公式声明であった。この頃,尖閣諸島に関する他の動きもあった。

19714 香港8大学学長,我が国の釣魚台主権の擁護声明を発表[⑬]
1971420 台湾当局:「釣魚台列嶼の主権に関する外交部声明」
19715 『人民日報』:「中国の領土主権に対する侵犯は許さない」
・同年11 『北京放送』 釣魚島などの諸島は中国の神聖な領土と主張
・同年12 『人民日報』「釣魚島の主権に関する外交部の声明」を発表

 

台湾当局のもっとも公式な声明発表は,1971420日の「釣魚台列嶼の主権に関する外交部声明」であった。その主な内容は、次の通りである。

 

「中華民国の釣魚台列嶼に対する領土主権は、歴史、地理、使用、 及び法理のいかなる観点からいっても疑問の余地がない。この立場は,終始一貫して,絶対に変わるものではない。ここで特に説明しておきたいことは,第二次世界大戦後,同列嶼は,米国が軍事占領したが,当時,我が政府は,海域安全の共同防衛のため必要な措置として,これを認めた。その後,中・米両国は,自ら範囲を区切ることで協議を達成し,以来,我が漁民は,同区域で操業を続けている。しかし,最近,米国政府が,将来,琉球を日本に返還するにあたり、釣魚台列嶼もそれに含めんとしているので,我が政府は,これに強力な反対をしている。(中略)米・日両国政府の発表した我が立場と異なる言論あるいは声明に対しては,我が国は,すべてそれらに強く反対している。」[⑭](後略)

 

1971611日,台湾外交部は、さらに「釣魚台列嶼の主権に関する外交部声明」を発表し、「カイロ宣言」、「ポツダム宣言」に規定される琉球群島の地位,釣魚台列嶼は台湾の領土の一部であること,中華民国政府は領土保全の神聖な義務に基づき,いかなる情況かにあっても,絶対に微少領土の主権を放棄することはできないと強調した[⑮]

台湾や香港における尖閣諸島問題に関する積極的な論評や声明発表が行われること及び活発な対日抗議活動が展開されるこの時期,中国も19715月,11月と12月に続けて論評を発表した。その背景に,中国内では,文化大革命の嵐のような「階級闘争」の大衆的政治運動が19694月中国共産党第9回大会の開催により収束しつつ,社会が徐々に安定していったこと,さらに文化大革命の混乱により中止された外交や対外関係を再開するなどの事情があったと指摘できる。

 

終 わ り に

上述した台湾の新聞を中心とした世論の動向や内容をまとめて見ると,次のようになる。

第一,尖閣諸島に関する台湾の新聞界を代表とした世論の関心事は,最初の尖閣諸島周辺の天然資源の権利であったが,すぐ尖閣諸島の主権問題に変わっていった。最初の議論の内容からみれば,尖閣諸島に関し、あまり認知度が高くなかったようである。長年,漁民が生活のため尖閣諸島に関わっているが,マスコミ・知識人などのエリート層は,小さな無人島である尖閣諸島への関心がほとんどなかったことが窺える。

第二,尖閣諸島の主権問題に関する議論は,台湾当局が『大陸棚条約』に提出した「保留条項」の解釈,中国及び台湾の大陸棚と尖閣諸島との地理的構造関係,史的文献及び法的角度などから論じるものが多かったが,日本による尖閣諸島の編入過程や民間人の利用等について,熟知した上での議論が少なかった。それは日本が尖閣諸島の日本領への編入を周知するための声明発表等をしなかったことにも関連するであろう。

第三,尖閣諸島は,台湾に近く,台湾漁民にとって重要な生活基盤ではあるが,台湾当局が長年その存在について特に立場を持っていなかった。その要因としていろいろ考えられるが,台湾(及び1949年まで中国大陸に存在した中華民国)がおかれた特殊な環境が重要な一因でもあった。

日清戦争後,敗戦した中国は,日本への賠償金(銀2億テール),台湾割譲など屈辱的な『下関条約』を受け入れなければならなかったが,その後,「戊戌変法」(1898)という維新運動の失敗,義和団運動(1900)の動乱(さらに莫大な賠償金銀45千万テールが課せられた),辛亥革命の勃発(1911),中華民国の成立(1912),軍閥割拠時代の戦乱(1910年代後半~1920年代中期)及び北伐戦争(19261928),第一次国(民党)共(産党)内戦(19281936),満州事変(1931),日中戦争(19371945),第二次国共内戦(19461949)といった戦争や不安定の時代が続いていた。

1949年,中華民国が国共内戦で敗れ台湾に逃れたが,大陸には中華人民共和国(本論では「中国」という)が成立した。台湾に撤退した中華民国(本論では「台湾」という)は,大陸からの侵攻を防ぐ一方,1970年代まで終始「大陸反攻」をしようとしていた。

このような多難な時代におかれた台湾(中華民国)にとって,尖閣諸島という小さな無人島の存在があまり意識されなかったかも知れない。

一方,大陸の中国も1960年代末まで尖閣諸島との関わりはほとんどなかった。それは,中国が置かれた国内外の様々な事情にも関連した。

中華人民共和国建国後,国内において,1950年代から1960年代末まで,「土地改革」,「反革命粛清」,「三反五反」,「反右派闘争」,「大躍進運動」,「四清運動」,「文化大革命」などの政治運動が休むことなく連続的に展開され,対外では,「抗米援朝」(朝鮮戦争),台湾海峡危機,中印国境紛争,「抗米援越」(ベトナムの戦争),中ソ国境紛争等が次から次へと起こった。特に1966年からの「文化大革命は,老若男女問わず,国民全員を嵐のような「階級闘争」の大衆熱狂運動に巻き込み,中国の社会や対外関係を大変混乱させた。

このように,中国政府はその内外の様々な事情に忙殺され,対外的には,アメリカの「中国封じ込め」をどう打破するか,台湾をいつ,どう解放するか,北側のソ連からやってくるかもしれない襲撃をどう防ぐかといった喫緊の問題をも抱えていた。そのような事情を前にして,中国はおそらく尖閣諸島問題に関心を示す余裕はなかっただろう。

他方,1960年代末まで中国側が尖閣諸島の領有を示していないことについて,日本政府が次のように指摘している。

「中国政府は,1895年の尖閣諸島の日本領への編入から,東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘され,尖閣諸島に注目が集まった1970年代に至るまで,実に約75年もの間,日本による尖閣諸島に対する有効な支配に対し,一切の異議を唱えませんでした。」[⑯]

この点について,中国が尖閣諸島を忘れていたのではないか,また,同様に,日本側も沖縄県の石垣市が国の許可が下りた尖閣諸島への標杭の建設を忘れていたという指摘がある。

 

「久場島,魚釣島への標杭建設のことをすっかり忘れてしまった。ここに石垣市が地籍表示のための標杭を立てたのはなんと閣議決定から 74年後の1969510日。琉球政府がこれらの島々の領有を宣言したのは1970910日である。つまりこの周辺海峡に石油が産出する可能性がある,といわれてからあわてて領有権を主張しだしたのである。この点において中国政府の対応も五十歩百歩である。台湾を取り戻すには意を注ぐが,これら小さな無人島については関心を示して来なかった。」[⑰]

当時,中国や台湾がおかれた特殊な環境や日本による尖閣諸島の日本領への編入事情(未公表)から考えれば,双方のいずれかにとって,尖閣諸島をよく知っているとは言えない。また,1886年,日本が尖閣諸島に「公然と国標を建てる等をすると,清国の疑惑を招く」という懸念を抱いたが,背景に「清国新聞等は我が政府が台湾付近の島嶼を占拠しようとする風説を掲載し,我が国へ猜疑を抱き,頻に清政府の注意を促している」[⑱]という 80数年前の事情は,天地をくつがえすような変化を経た中国及び台湾において、すでにそれを知る人はいなかったかも知れない。

いずれにせよ,時系列順から見れば,1970年代初期,台湾の新聞界が率先して尖閣諸島問題を巡り,天然資源の権利と領土主権の問題を論じ,またその領有権を強く主張することは,台湾内外に大きな影響を与えたことは間違いない。台湾の新聞界に掲載された大量の尖閣諸島の所有権に関する論評が、その後台湾・香港及び海外の中国留学生の間に、「釣魚台防衛運動」を巻き起こし、愛国のナショナリズムを形成した。基隆市の漁業界から政府に対する出漁時の漁船の保護要請、台湾省議会の「釣魚台」の主権に関する決議の採択及びアメリカと香港での大規模な集会・デモ活動等はその好例である。このような様々な動きを前に、台湾当局も動き出して,それまでに控えめにしていた姿勢を改め、徐々に強い外交声明を発表するようになった。その背景に台湾の世論の影響力が大きかったことが考えられる。

尖閣諸島問題は,1972年日中国交正常化時点に中国側の提唱した「棚上げ」の形で落ち着いていたが,2012年日本による国有化の後,日中両国はお互いに尖閣諸島の所有権の政治的キャーンペンを展開し,双方は鋭く対立するようになっている。また,台湾側の漁船や巡視船による尖閣諸島周辺の航行が行われたが,中国側の巡視船による尖閣諸島周辺の航行が常態化になっている。中国の尖閣諸島への強硬姿勢に対し,日本は日・米・豪・印などによる「中国包囲網」の作成で中国を牽制しているが,米・豪・印はそれぞれの目的により南シナ海あたりで応じるものの,尖閣諸島問題がある東シナ海における中国牽制について,豪・印は応じる様子がほとんどなかった。

尖閣諸島問題を解決しない限り,それをめぐる衝突の危険性が存在するので,日・中・台間の喫緊の問題として真剣に取り組むべきであろう。

台湾の世論が台湾当局の政策決定にどのような影響を与えたかという検討から何かの示唆が得られるのは本論の狙いであるが、日本や中国の世論がそれぞれ自国政府の政策決定にどのような影響を与え、また各国の共通問題としての世論・ナショナリズムと対外政策との関係について、更なる研究が必要であろう。

[①] 大陸中国と台湾は,台湾が中国の一部であり,日本も台湾が中国の領土の一部であることを認めているが,尖閣諸島(中国名:釣魚島;台湾名:釣魚台)の天然資源及び主権問題について,台湾側は強く主張し,特に独自の漁業関係等の立場からとった言動が多いので,「もう一つの当事者」として取り扱いをすることにした。

[②] 彭佳嶼(ほうかしょ)は台湾本島の北東、基隆市の沖約56kmに浮かぶ島である。台湾で最も北に位置する有人島である。島の面積は約1.14平方キロメートル、海抜165メートルである。

[③] 「頭城」は地名、「鎮」は市より規模が小さい行政区域である。日本の市町村の「町」にだいたい相当する。「頭城鎮」は台湾宜蘭県の最北端の町である。

[④]  琉球政府は,₁₉₅₂年(昭和₂₇年)米国民政府の下に設立し,1972年(昭和47年)まで,沖縄本島を中心に存在した沖縄住民の自治機関である。1972年に沖縄が日本に返還された際に消滅した。

[⑤] 浦野起央,劉甦朝,植栄辺吉編『釣魚台群島(尖閣諸島)問題・研究資料汇 編』「釣魚台群島(尖閣諸島)問題年表」(励志出版社(香港),刀水書房(東京) 共同出版,₂₀₀₁年)及び浦野起央『分析・資料・文献(増補版)尖閣問題・琉球・ 中国日中国際関係史』「尖閣諸島年表」(三和書籍,₂₀₀₅年)を参照に作成し たもの。

[⑥] 日本が台湾の措置が無効だという覚書を台湾側に渡したことが1970813日『中国時報』:「政府が立場を堅守,理詰めで反駁すべきだ」という記事に記載されている。

[⑦]  1970年7月まで、尖閣諸島に上陸した台湾漁民等が退去命令を受けたのは、主に次のような事例である。

・1968年8月2日,琉球政府が南小島で台湾のサルベージ業者が沈没船解体等作業中の台湾人45人を不法入国で退去命令。以後、米民政府は不法入域取締りのため軍用機による哨戒、琉球政府も巡視艇の定期パトロールを実施。

・1970年6月, 琉球政府,久場島に対する巡検実施,不法入域者₁₄名に退去命令

・1970年7月9~10日, 琉球政府,北小島で領海侵犯の名目で台湾漁船に対し退去命令

・1970年7月11日, 琉球政府,魚釣島に上陸の台湾漁民,黄尾嶼沖で作業中の台湾人に退去命令

 

[⑧] 浦野起央,劉甦朝,植栄辺吉編『釣魚台群島(尖閣諸島)問題・研究資料汇編』(励志出版社(香港),刀水書房(東京)共同出版,2001年)年表と浦野起央『【分析・資料・文献】(増補版)尖閣諸島・琉球・中国 ―日中国際関係史― 』(三和書籍,2005年)年表を参照に作成したもの。

[⑨] 同上。

[⑩] 本田善彦『台湾と尖閣ナショナリズム――中華民族主義の実像』(岩波書店,2016年)20頁。

[⑪]  同上書,22頁。

[⑫] 浦野起央,劉甦朝,植栄辺吉編『釣魚台群島(尖閣諸島)問題・研究資料汇編』(励志出版社(香港),刀水書房(東京)共同出版,2001年),97頁。

[⑬] 八大大学は珠海大學,廣大學院,香江學院,聯大學院,華僑工商學院,德明學院,清華學院,遠東學院を指し,現在,多数が閉鎖している。

[⑭] 浦野起央『【分析・資料・文献】(増補版)尖閣諸島・琉球・中国 ―日中国際関係史― 』235236頁,(三和書籍,2005年。

[⑮] 同上書、237239頁。

[⑯] 日本外務省 HP:「尖閣諸島情勢の概要」 http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/c_m/senkaku/pagew_₀₀₀₀₁₆.html 最終アクセス日20171031

[⑰] 村田忠よし『尖閣諸島・釣魚島問題をどうみるか――試される二十一世紀に生きるわれわれの英知』(日本僑報社,2004年)。41頁。

[⑱] 1886(明治18)年1021日,井上外務卿より山県内務卿宛てに「沖縄県ト清国トノ間ニ散在スル無人島ニ国標建設ハ延期スル方然ルヘキ旨回答ノ件」,『日本外交文書』明治 第十八巻575頁。

 

 

(修道法学 第40巻 第2号 抜刷 2018年2月28日 発行)

 


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