『週刊社会保障』July 2020 Volume74 No3078 法研刊行に掲載された原稿

 

コロナ禍で見えてきた中国社会保障の課題

日本女子大学 沈潔

はじめに

2020522日に新型コロナウイルスの感染拡大によって延期を余儀なくされていた中国の全国人民代表大会(国会に相当、以下「人代会」と略す)が開幕した。中国の国営通信社である新華通信は例年通り、大会開幕の直前に国政に対する世論調査を行った(表1)。国政に対する関心事として2020年のトップ5位に入ったキーワードは、社会治理(ガバナンス)、社会保障、所得水準、教育公平(教育機会の公平性)、住宅保障(住宅の提供と保障)が並んでいる。以前の調査では、社会保障は2019年に第4位、2018年にはトップ5位にすら入らなかった。ここ2年間で関心度が急上昇したキーワードとなったことを窺える。また、2020年の世論調査で高い関心が示されている所得水準、教育公平、住宅保障の三領域も、実に社会保障と密接な関連を持っている。コロナ禍後、国民の最大な関心事が社会保障に集中していると言っても過言ではない。このような社会問題への関心が高まりつつあることは、中国の民衆たちはなにか強い不満とそれを是正できる政治への熱い期待を持っていることと解釈することができるであろう。

なぜ、社会保障問題はコロナ禍が一旦終息したように見える中国で急浮上したのか、そして現在の中国社会はいったいどのような課題を抱えているか、本稿は社会のセーフティーネットや衛生医療の課題を通じてそれを考えてみたい。

 

1 脆弱な社会的セーフティーネットの課題     

社会的セーフティーネットは最低生活保障と失業保険というネットワークで成り立っており、社会保障の重要な機能の一つとして注目されている。

1)今の所得水準は人々の生活が守られるのか

GDPが世界第二位となり、「経済大国」としてのイメージも定着しつつある中国では、「貧困生活者」の存在が近年だんだんと人々の視野から消えていたようだ。ところが、2020528日、全人代閉幕後に行われた李克強首相の記者会見において、国民の所得水準について記者に質問された際の李首相のコメントによって、世間に驚かせる数値と真実が初めて明らかにされた。それは、「我が国の1人当たりの平均年収は3万人民元あたりだが、可処分所得が月1000人民元(約15000円)の低所得者が6億人にのぼる。月収1000人民元では、中級都市で家を借りることも難しい」という現実であり、李首相が自身の口から国民の所得水準が依然として低いレベルにあると公言した。これまで、国内外のメディアで注目された「大会の勝利」を歌う場において、全国の情勢が極めて良く、順調であると発言する指導者がほとんどであっただけに、李氏のような問題提起の発言は際立っていた。国家統計局の正式な発表では、2019年に一人当たりの平均収入3733人民元、月平均2561人民元となる。公表された統計には、李氏によって提示された数字が触れなかった。

李氏発言の真意についてさまざまな解釈と批判はあったが、筆者の解釈は次の2点にあると考える。まず、新型コロナウイルス感染拡大の初期には、地方政府が取った感染者数の隠蔽や情報統制の行動によって感染が急速に広がり、国内外から強烈な批判に浴びせられた。政府関係者が事実を隠し、成果を大げさに吹聴する傾向が実に日常的に行われている現実が再度世界中の人々の前に現れた。このような行為を是正し、国内外の信用を挽回するために警鐘を流す意図が李首相の内心にあるだろうと推測できる。次に、コロナ禍後、経済の悪化によって非農業部門の失業率は大幅に上昇した。しかし、中国は日本や欧米諸国が行っている個人向けの現金給付支援を行っていない。国民に自助努力を厳しく求める姿勢を一貫している。仕事を失って生活が困窮に陥った人々は、政府に対する抗議を全国各地域で起こしつつあった。そこで、依然として6億人の人々が貧困ラインのギリギリなところで生活している実態を国民に示し、政府の立場を理解してもらいたいという意図もあると思われる。

ところで李首相に言及された6億人の低所得者がどこにいる?だれなのか?中国の国家統計局が2019年に公布されたデータを分析すると、国民の所得水準を5つのランクに分けることができる。所得水準が一番低いランクにおかれた人々は、一人当たりの平均可処分所得年収は7380人民元、二番目に低いランクは15777人民元、三番目に低いランクは25035人民元、四番目に低いランクは39230人民元、5番目には76401人民元となる。考えてみると、一番目と二番目のランクに入った人々は月収1000人民元あたりにおかれている。2019年第4半期の統計によれば、生活保護を受けている人口は、都市部860.5万人で、生活保護費が月624人民元、農村部3456.1万人で、生活保護費が月445人民元になっている。生活保護を受けていた約4200万人を除けば、まだ5.5億の人々が生活保護ラインのギリギリなところで生活している。今の農村戸籍人口は約5.5億人に、そのうち出稼ぎ農民工は2.9億人、農村にいる留守人口は2.6億人となり、そのうちの4億人が月収1000人民元以下になるであろうと中国の学者は分析している。[i]習近平政権は2012年から2020年までの8年間で「脱貧攻堅」(貧困解決という最難関の攻略)の目標を掲げて、すべての農村貧困人口の脱貧プロジェクトに取り組んできた。しかし、上述の状況を勘案し、脱貧プロジェクトに設定された脱貧の所得水準数値は、生活が守られるのか?疑問が残される。

 

2)《失業保険条例》の落とし穴

コロナ禍後、経済の悪化によって非農業部門の失業率は大幅に上昇した。雇用動向調査では4月の失業率は6%を超え、失業者は2600万人にのぼった。今後も失業率は引き続き上昇し、過去最大になる見通しだ。しかし、4月に失業者のうち正式に失業手当を申請した人数が230万人あたりに止まり、失業者全体の1割あまりしか占めていなかった。過去の統計データを見ても2018年の失業率は4.9%で、失業人数2136万人がいるうち、失業手当を受給した人数は223万人だった。さらに世界規模の経済危機である「リーマンショック」翌年の2009年においても、失業手当の受給者数は235万人しかなかった。[ii]なぜ、どんな状況なっても失業保険の受給者数が230万人台あたりで「微動」し、「不変」の神話が形成されたのか。その実際は、この失業保険制度の設計に落とし穴があるためである。

失業保険制度は1999年に国有企業改革の一環として創設された。以来、加入者数は増えつつ、1999年に9912万人になったが、2018年に2億人を突破した。失業保険の納付金は雇用主と加入者の双方が拠出することによって、1999年に保険料収入は120億人民元に達し、2018年に5817億人民元までに積み立てられた。すなわち、加入者及び積立基金ともに増えつつあったが、受給者数はあまり増えていなかった。1999年に制度創設のために作られた《失業保険条例》(以下条例)は、その給付条件があまりにも厳しいものであったのがその理由である。例えば、条例では、加入者は失業前に企業と本人が1年以上失業保険料を納付しなければならない決まりがあり、雇用されていた会社が所定の税金をすべて支払っていることも条件となっている。現況から見ると、2018年に全国の就業者数は 約78千万人であり、そのうち都市部の就業者数は約43千万人となり、約2億人が失業保険に加入した。失業保険の保険料は、企業負担と個人負担による納付が必要となり、保険料率が地域によって異なるが、企業負担2%、個人負担 1%となることが一般的である、企業の保険料負担率が高いため、多くの民間中小企業は加入しない選択を選んだ。条例に定められた条件をクリアできる企業は、経営が安定した大企業や公務員系列ばっかりだった。2018年以後、失業保険負担を軽減するため、一部の企業及び個人の負担率は30%~50%程度まで下げられたが、参加率の伸びは期待できなかった。また、受給申請は「個人の意思によらない、非自発的な退職であること」[iii]が条例の決まりで、雇用主の解雇証明がなければ、認められない。雇用主とトラブルを生じた離職者は、解雇証明がもらえず、失業手当を申請しない/できないケースが少なくないという。

一方、非正規雇用者の大半は失業保険に加入していない。コロナ禍によって最も打撃を受けた人々と言えば、職を失い、農村地域にも帰省できない非正規雇用の農民工たちである。これに対応するため、緊急事態の下で開催された522日全人代の初日に、李克強首相は政府活動報告の中で失業保険の適用枠を拡大し、保険加入期間1年未満の農民工などの失業者もすべて居住地の保障対象枠に組み入れることを表明した。

1999年に制度創設の当時に作られた《失業保険条例》は、その後の時代変化に沿って綿密な改正があまり行われていなかった。今後、こうした苦しいときの神頼みのやり方で制度の不備を補うことではなく、また、行政機関が執務の根拠となる条例のままではなく、失業者の生活安定を全面的にバックアップする法規範の強い『失業保険法』を制定することが重要であり、急務であると思う。

 

2  「小さい政府」の医療改革の限界

1) 民営化・市場化の医療改革の限界

歴史は常に繰り返される。2020年に武漢で発生した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、2003年に中国広東地域で発生したSARS(重症急性呼吸器症候群)と同じことを繰り返したように見える。SARS流行の教訓として、市場経済改革が行き過ぎたことにより、生産性が取れない末端の公共衛生システムの崩壊にあること、そして、感染情報の不透明により、感染者が急速に広がったことなどはすでに専門家から指摘されていた。今回のコロナ禍が急速に拡散した要因も前回と共通で、その2点にあると思われる。

現在の救急感染医療体制の疾病管理予防センター(CDC)は、2003年にSARSの発生を契機に創設された医療機構である。2003年に発足した胡錦濤政権は、国内外の批判を収めるために国庫負担で全国の各行政区域に必ず一カ所の疾病管理予防センターを建設する通達を出して、短期間で全国各行政区域における疾病管理予防センターという公共衛生システムが作り上げた。同時に感染症危機管理専門家の養成も力を入れ始めた。医療保険制度のあり方も見直され、国庫負担の形で農村新型医療保険の普及活動が全国に展開された。これを機に長い間、社会保障から排除された農民層に最低限の医療保険を与え、将来的には「皆年金・皆保険」を実現しようという政策目標を目指して、これまで社会保障における選別主義的な政策が農民層を視野に入れた「普恵型」福祉政策へ転換することを試みた。SARS発症の危機を変革の契機につなげ、国民の命とかかわる衛生医療体制の基盤づくりに大きな進展が見られた。

しかし、交代間もなく、これまで国庫主導で公共衛生・医療の基盤づくり路線から、中央政府が投資主導で公共衛生・医療サービスの拡充する方針に転換した。2011年より実施に踏み切った「健康中国2020」国家プロジェクトは、ヘルスケア関連市場の振興を促進する方向を明らかにし、2018年に再び打ち出した「健康中国2030」国家プロジェクトは、衛生・医療の民営化、産業化に重点を置くことが改めて強調された。「健康中国2030年」を達成するため、医薬品・医療、食品、環境セクターなどの幅広い関連産業にビジネスチャンスを拡大し、総規模16兆人民元を投資すると明示した。このように国家の強い介入によって、衛生医療領域における市場化と民営化の動きは活発になった。

 

出所:国家衛生健康委員会「我国衛生健康事業発展公報」2008年~2019年より作成

(図1を参照)2010年まで民営病院に関連する公式な統計データがなかったため、おそらく取り上げるまでもないほど微々たる数値だろうと思う。2011年以後、中央政府は民営病院の発展に力を入れ始め、新病院の建設は公立病院より民営病院(外資系含む)を優先、民営病院の診療報酬の自由化などの政策を次々と進めている。2013年に健康・医療サービス事業への参入制限を緩和する方針が国務院に明らかにした後、民営病院への投資という新たなブームが起こった。2015年に民営病院は14518カ所まで急増し、公立病院の13069カ所を上回って逆転した。2019年に公立病院は11930カ所で、民営病院は22424カ所となっている。民営病院の8割以上は地域に密着する中小規模の病院で、しかも医療保険が適応されない病院が半数程度にある。民営病院は地域医療や多様なニーズに対応できる存在として期待されたが、実際には、地域医療格差の拡大や患者負担の増加など、新しい問題が生じていた。公立病院の赤字経営の改善や医療サービスの多様化を趣旨として展開されてきた病院の民営化だが、赤字経営問題が少し緩和されたものの、患者の個人負担が重いという難題は改善されていない。

衛生医療の市場化・民営化の進展は、衛生医療サービスの拡充につながった。ただし、公共性の高い地域医療や疾病予防領域は採算が取れないという理由だけで、財政予算や定員を抑制したことによって顕著な衰退傾向も示された。SARS危機を機に創設した各地域の疾病管理予防センターは、2005年に医療従事者が21万人に達し、公共衛生に対する国庫負担も医療費総額の7.87%を占めた。2017年の段階では疾病管理予防センターの医療従事者は19万人以下に減り、国庫負担の公共衛生費用は医療費総額の5.58%まで減少した。また、SARS危機後に中国人事院が決めた規則では、1万人当たりに疾病管理医療従事者を1.75人確保しなければならないことになっているが、2019年の時点で1.35人に留まっている。他国と比較するとアメリカが9.3人、ロシアが13.8人の比率に対して、中国の数値は極めて低い。[iv]また、図2に示された疾病管理予防センターの年次推移を見ても、一番多い時期の2007年では3585カ所まで増えたが、2011年以後は減少傾向で2019年には3404カ所に減少した。

 

出所:国家衛生健康委員会「我国衛生健康事業発展公報」2008年~2019年より作成

高度的な集権化国家の強い介入の下で進められた民営化・市場化の医療改革の限界は、すでに見えてきたと言えよう。

 

2)問われる医療保険制度の公共性

公的医療保険では、リスク分散する保険機能と弱者を保護する所得再分配機能という2つの機能を担っている。しかし、現行の医療保険制度は、所得再分配の機能不全という課題に面している。

1998年に再編された従業員を対象とした公的「基本医療保険」は、再分配機能を持つ社会医療基金と貯蓄機能を持つ個人医療口座による組み合わせた構造が特徴である。社会医療基金は、加入者の間で再分配できるが、個人医療口座は自分の医療費を支払う個人が管理するため、再分配できない。保険料について雇用主が従業員の賃金総額の約6%を負担し、うちの70%が社会医療基金に、30%が従業員の個人医療口座に積み立てられ、また、従業員が平均賃金の2%を保険料として加える。個人医療口座に積み立てられた保険料は労使拠出総額の47%となる。2018年の統計で従業員を対象とした医療保険費の総額は18605.38億人民元のうち、約40%の7177.42億元が個人医療口座の積立金となっている。[v]所得再分配機能を持つ社会医療基金が医療保険費全体の6割しか占めていないため、再分配機能の発揮が極めて制限されている。さらに個人医療口座には、収入の高い人の積立水準が高く、収入の低い人の水準が低い、所得格差を拡大させる側面も無視できない。

本来、個人医療口座の導入は、医療費の抑制効果が主な狙いとされていたが、実際のところ、必要のない診療や薬品の浪費及び健康食品への流用など、医療費の無駄使いや不正使用など深刻な社会問題となっている。一部の専門家から個人医療口座を撤廃すべきとの提案もあったが、積立金の管理運用は各地方政府に委ねているため、地域経済振興の債券に買わせることが多く、地方政府は個人医療口座の改革に消極的だった。

習近平政権は2020年までに基本的な医療制度をすべての国民にカバーするという目標を掲げている。その理想を追求する前に、まず公的医療保障制度の公共性を問うべきであろう。

 

 3 コロナ禍の危機を社会保障改革につなげていくために

コロナ禍の危機によって、中国社会保障の脆弱な側面が明るみになった。今回の危機を社会変革につなげていくために、変革しなければならないことは何だろうか。筆者は社会保障と経済成長及び社会保障と政治体制との関係を見直すべきと思う。

SARS危機及びコロナ禍が中国で起こったことは偶然的な要素であるが、一方でこの30年にわたる経済成長が最優先課題に位置付けられてきた帰結とも思われる。社会保障制度の構築過程において経済成長を支えることが社会保障の主な役割であるという政策志向が貫かれてきた。この数年の経済成長に伴い、医療保健支出対GDP比は2010年に4.98%、2019年に6.7%と徐々に伸びたが、日本、ドイツ、フランス、カナダの対 GDP 保健医療支出が 11%前後[vi]に収束していることと比較すると、極めて低い水準に止まっていることがわかる。そもそも国民生活を犠牲し、低い水準に止まらせたにもかかわらず、人々の生活を支えるための医療資源を抑制し、如何に新自由主義経済へ対応させていくに力を注いできたかが教訓である。この教訓を生かし、経済成長至上主義から脱却し、社会保障制度として人々の生活を守るセーフティネットの構築や所得再分配の役割をしっかり果たすべきであろう。

中国社会保障の改革は、政治の集権化という壁に直面している。政治の集権化によって、社会保障政策に関して決定権、資源の分配権において国家の介入はますます強くなる一方で、社会保障の財政や供給においては、国家の関与は可能な限り小さくしようというジレンマが生じた。法律の健全化によって国家の介入を通じて社会保障の公正化や政治の多元化を達成しようという目標であれば理想だが、結果として民衆による下からの異議申し立てを制限する局面が現れ、社会保障における民主主義の原理を遠ざけてしまう。

ポストコロナでは、この危機を変革につなげ、国民生活の向上や民主政治体制改革との協調により、社会保障の再構築が必要になるであろう。

 

[i]「総理に指名された6億人が誰か:中国財政科学研究院楊良初にインタビュー」『中国新聞週刊』2020530

[ii] 鄭秉文「降低門欄、譲失業者能領到失業金」中国社会科学院社会保障実験室『快訊』393期

[iii] 中国《失業保険条例》を参考

[iv] 李玲/江寧「医療衛生体系の短所を補う」『中国党政幹部論壇』20203

[v] 華頴従医保個人口座の興衰から看る中国社会保障改革理性回帰」『学術研究』20204

[vi] 中国は2019年国家衛生健康委員会の公表データ;諸国はOECD Health Statistics 2019に掲載された2018年の数値


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