神戸大学教授 王柯氏

魯迅と藤野先生の「共同知」

――中日両国における「共同知」の可能性と必要性をめぐって

神戸大学教授 王柯
いうまでもなく、中国と日本との「共同知」という考え方は、中日両国の間に共通、共有する「知」が存在し、あるいは存在しうることを前提としている。グローバリズムとナショナリズムが混在する今日において、「中日の共同知」という考え方は、両国においてきっと疑われる。その理由は、主に20世紀前半の日本による中国侵略及び戦後処理に対する考えの相違である。

しかし、中日両国の間に共通、共有できるような「知」の空間が存在していたことは、否定できない事実であろう。たとえ敵対の時期においても。それは、「共同知」の「知」(knowledge)が、一民族の生活の知恵や一国家の政治的理念ではなく、自然や人類社会を認識する知識、学術、学問の理論と範疇、及び倫理観、価値観を意味することにある。その例として、魯迅と藤野先生との間の出来事を取り上げることが出来る。

 

文化と精神構造の対話

1904(明治37、光緒30)年、若き日の魯迅が仙台医学専門学校に留学する。そこで教授藤野厳九郎と出会う。藤野は、慣れない日本語に苦労している魯迅のノートを懸命に添削し、親身になって指導したという。魯迅は後にエッセイ「藤野先生」を著し、「私が自分の師と仰ぐ人の中で、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれた一人である」と、藤野先生から大きな感銘を受けたことを明らかにしている。

文章の締めくくりとして、魯迅は次のように述べている。「彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦(う)んで怠けたくなるとき、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。」

中国では、魯迅が「民族の魂」、「民族の良心」と呼ばれ、階層、党派と時代を超えて国民から敬愛された。しかし、魯迅の生涯敬愛した師、そして魯迅の中国の封建主義と闘うエネルギー源になっているのは、なんと一人の日本人であった。もし魯迅が藤野先生との間の「共同知」を発見しなければ、このようなことは当然ありえなかった。

「藤野先生」の思想的価値については、多くの文学評論家や思想史家がまず日本人学生による苛め、日露戦争に関するニュース映画で1人の中国人が処刑される際に中国人はそれをまるで神経が麻痺しているかのように眺め、日本人学生が歓声を上げるなどに関する描写に注目する。つまり、魯迅がこれを通じて、1、日本国内に蔓延している中国人への民族差別を批判すること;2、中国人の民族意識、国家意識の欠如を批判すること、と解読している。しかしこうした日本の民族主義を批判しながら、中国の民族主義を呼びかけるというような解読は、論理的に矛盾していることに、文学評論家や思想史家も気づくべきであろう。

歴史研究者としての使命は、「なぜ」を設問することである。魯迅が「藤野先生」を通じて本当に何を言おうとしたのか。それに関して、二点に注目したい。

1、なぜ回想文だったのか。つまり、魯迅の文章は普通「“正人君子”の連中に深く憎まれる」風刺、批判の文体や小説となっているが、しかし「藤野先生」は違う;

2、なぜこの時期に著したのか。魯迅は1906年に仙台医学専門学校を離れ、1909年に日本から帰国する。しかし「藤野先生」を執筆したのは後の1926年になっている;

納得のいく答えは、「藤野先生」は他の目的で著されたのではなく、魯迅が深い感銘を受けた藤野先生の人格に対する賞賛であり、魯迅の恩師に対する敬愛の自然的発露である、ということであろう。

藤野先生は勤勉で、責任感が強く、誠実である。先生は分け隔てなく人間に接し、相手を理解しようと努力を惜しまず、親切である。先生は平和を愛し、協調を重んじて対立を嫌う。民族主義に煽らされた日本人の学生に比べ、魯迅の目に、藤野先生の姿は、まさに一人の「東洋的君子」に映っていた。魯迅が藤野先生の姿に共感したのは、東洋的現実主義、平等主義と平和主義である。これは、魯迅の死後、藤野先生が執筆した「謹んで周樹人様を憶う」という文章によっても裏けられる。

時間が経てば経つほど、思想家として成熟していく魯迅は、自分に対する「藤野先生」の存在価値をますます深める。そして時間が経てば経つほど、師の人格に対する敬愛が日々増していく。26年に執筆した理由は、ここにあると考えられる。日両国の社会文化は、間違いなく異なる部分がある。しかし人間の無意識ないし深層心理のメカニズムにまで追及すれば、両国は文化精神の範疇において多くの価値観を共有していることが分かる。

「藤野先生」を著したことによって、魯迅自身も人格完成上において重要な一歩を踏み出したことになる。というのは、孔子にも疑いの矛先を向ける魯迅が、ここにおいてついに「師」の存在意義を認めたのである。魯迅は、一人の日本人との精神上における対話を通じて、東洋的文化伝統に回帰したのである。これは、伝統文化への反逆精神に満ちていた魯迅自身も、意識できなかったことであろう。

まさにこのことに象徴されるように、文化と精神構造の次元で中日両国が共有できる共同知の多くは、人々に意識されずにいただけのことではなかろうか。

 

近代における学術と共同知

魯迅が藤野先生の人格を高く評価した理由は、またその学術と国家との関係に関する姿勢にある。「よく私はこう考える。彼の私に対する熱心な希望と、倦まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生まれることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。その名を知る人は少ないかも知れぬ。」

中国のためなら「小」であり、学術のためなら「大」である。この考え方は、政治的に思われてきた魯迅のイメージと、むしろ正反対だった。しかしこの考え方は、人類の「知」に対する営みというレベルで考えれば、正しいものといわざるをえない。人類普遍的な真理を探究する学術学問は、一国家の領域にとどまることができない。いわゆる「大善」である。逆に、人類普遍的な真理を探究する学術学問であれば、どの国家もその恩恵を受けることが出来る。いわゆる「小善」である。

魯迅による「大善」と「小善」の弁証法的考えの形成は、藤野先生の日常の動から受け取ったものである。藤野先生の徹底した授業と指導、藤野先生による毎週のノート添削、さらに解剖図と芸術絵画とは筋合いが違うという指摘などを通じて、魯迅は中国よりも学術の世界が大きいことを理解したのである。

ここで強調すべきは、こうした学術と国家との関係にについての考え方は、魯迅だけではなく、同時代に日本に来ていた数多くの中国人留学生がともに持っていることである。そして、自然科学の分野だけではなく、人文社会科学の分野においても同じである。20世紀に中日両国の対立、反目した歴史が長く続いていたにもかかわらず、中国の近代以降に成立した哲学、美学、文学、歴史学、考古学、人類学、法学、経済学など近代学問の分野は、そのみなもとをさがせば、必ず日本に見つけることになる。学問の枠組みだけではなく、多くの学術的概念も日本で形成された「漢語」である。

多くの学者は、中国が日本から近代の影響を受けていたことに注目している。近年来、ヨーロッパ――日本――アジアという図式を示し、欧米の近代思想の多くが日本からアジアに発信されたと考えている日本人学者もいる。しかし、われわれは日本が欧米の近代思想をアジアへ伝播する中継地に過ぎないという考え方に同意できない。

20世紀前期の中国社会のプロセスを検証すれば、欧米のような市民社会、公共領域というより、むしろ日本で展開された近代的社会システムの部分は、中国人留学生によって中国に持ち帰られ、実践されたことが分かる。たとえば近代的教育の思想、地方自治の思想などである。「日本的改造」という洗礼を受けた近代思想が、中国人にとって受け入れやすくなることは、中日両国の文化と精神構造が相似していることによるものである。

こうした対立ないし戦争を超えた両国間の「共同知」に基づき、多くの先哲、とくに多くの中国人思想家は中日両国の連携を弛まず模索した。たとえば、梁啓超の日本各界との交流、孫文による度重なる日本への接近、そして、魯迅の「藤野先生」もその努力の例になろう。

「藤野先生」が1928年に『朝花夕拾』というエッセイ集に収録された。1934年日本人増田渉と佐藤春夫が魯迅選集を日本語に訳すことを考え、魯迅に打診した。魯迅は『朝花夕拾』を日本語に訳す価値を猶予したが、「ただ『藤野先生』の一文は、必ず訳して(選集に)入れよ」と、むしろ頼んだのであった。つまり、魯迅は生涯最後までそれが自分の代表作であると考えていたのである。

しかし、1926年から1934年の間の中日関係は決して良くなかった。27年の山東出兵、28年の張作霖暗殺、1931年の満州事変、32年の満州国建国、33年の日本国際連盟脱退など、戦争への歩みにともなう時期であることがわかる。29年にいわゆる「田中上奏文」が暴露されてから、中国国民の間に日本が中国侵略の野望を持つことが知れ渡っている。日本に侵略される悲哀と苦悩を抱えながらも、日本社会における良心を発見し、「共同知」の構築を模索し続けたことは、決して孫文、魯迅など一部の中国人に限る現象ではなかった。無論、当時中国と向き合う日本の社会においても同様の苦悩を抱える人々がいる。竹内好はその典型的な例であろう。しかし残念ながら、その人数が少なく、また政治権力に対する影響力が限られた。

 

いま、なぜ「共同知」か

「共同知」の特徴は、自然や人類社会を認識する知識、学術、学問の理論と範疇、及び倫理観、価値観の次元で双方の共通点を発見することにある。これは、「親日派」、「親中派」を生産するメカニズムではなく、一民族の生活の知恵や一国家の政治理念に基づき、賞賛と齟齬が交わる「中国の日本観」や「日本の中国観」という考え方も超えたものである。

中国では、「魯迅の精神」が高く讃えられている。しかし魯迅精神の一側面は、日本人との間の「共同知」がありうるという信念であることは、前述の魯迅先生と藤野先生のエピソードから確認できる。中日両国の関係の大切さを認めれば、「共同知」という発想及びそれを求める姿勢は、どの時代においても必要であると理解できる。そして、魯迅と藤野先生のエピソードが物語っているように、とくに両国の利益が衝突する時期に、このような発想と姿勢はいっそう大切である。

今日、中国の急速な経済発展によって、中日両国関係は転換期を迎えている。それをもとに、両国の間にいささかギクシャクした空気が発生する。そのためでもあるが、両国の間に過去に出来た共同知を蘇らせ、新たな共同知の構築へ取り組む必要性が生じつつある。

現在中国と日本の間の問題として注目を集めるのは、政治と経済の問題である。しかし良好な政治関係を築き、経済関係を維持させて行くためには、共通、共有できるような知識、知恵、学術と学問、価値観の発見や構築は非常に重要である。政治と経済の基礎になるような共通、共有できるような知識、知恵、理念、価値観を構築することを通じて、両国は敵対心と警戒心を除去することができる。日本では、中国の台頭を、平常心をもって理性的に受け入れ、中国も、その急速な発展は日本に対する脅威ではなく、「平和的台頭」であることを説明ができ、そして理解される。

17世紀のイギリスの政治家で哲学者でもあるF.ベーコンは「知は力なり」、という有名な話を残した。漢字における「知」は、本来、知るとつかさどるとの二つの意味がある。21世紀において、日本と中国、そして東アジアの独特の文化精神構造を基礎に良い隣人関係を形成させることは、「知行合一」の原理に基づく「共同知」の目標であり、そして必ず達成できる目標と信じる。最後に、魯迅が戦火中、1933年にある日本人に贈った漢詩の一部を以って今日の発表を終わらせていただく。

度尽劫波兄弟在   劫波(ごうは)(わた)り尽くして 兄弟在り

 相逢一笑泯恩仇   相(あ)いて一笑すれば 恩仇(ほろ)ばん」[i]


[i] 『魯迅全集』第9巻204-205頁、学習研究社昭和606月。

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