「広告人として考える日中関係」

「広告人として考える日中関係」 

(株)電通 会長  成田豊

 

はじめに

 

「日本華人教授会議」の設立1周年、誠におめでとうございます。こうした晴の記念シンポジウムの席で、皆様にお話させていただく機会をいただき、誠に光栄に存じております

本日は、広告会社において私自身が携わってきたいくつかのプロジェクトの経験から、今後の日中関係のあり方について、私が考えるところをお話させていただきたいと思っております。

 

 

「教学相長也」(教学は相長ず)

 

私は、1996年の9月に当時の中華人民共和国主席であられた江沢民先生にお目にかかる機会に恵まれました。このきっかけとなったのが、電通がこれまで8年間にわたって取り組んでまいりました、「日中広告教育交流プロジェクト」であります。

このプロジェクトは、1996年に、私ども電通の創立95周年記念事業として開始され、5年間にわたって展開されました。その後、百周年記念事業として、3年間にわたる「日中マーケティング研究交流プロジェクト」へと発展いたしました。

私は、かねてより、中国と日本が相互理解を深め、永遠の友好関係を結ぶことが、両国間のみならず国際社会の平和と安定に、極めて重要であると考えておりました。電通の創立95周年を迎えた当時、その記念として100周年へと続く、中国との友好交流に意義のある事業をやりたいと思っておりました。

歴史的に考えても、中国は日本の文化の一つのルーツであり、文字をはじめ日本は中国から多くを学んでまいりました。現代の日本人の文化や生活は、2千年も前から、中国から次々にもたらされた文明・文化を基盤として成り立っているといっても、決して過言ではありません。

しかしながら、1996年当時、日中両国は、政治的な面で、ギクシャクした関係でありました。一方、経済や文化の交流はますます進展し、一衣帯水の国として、相互依存関係はきわめて強いものになっておりました。こうした日中両国の友好関係強化のために、広告人として何か貢献できることはないか、私はそのように考えていたのであります。

そんな時、19949月に老朋友、前・中国軽工総会副会長の傅立民先生にお会いしたことを思い出したのです。傅さんは、1986年、日中両国の協力により、北京で開催された「日本食品流通総合技術展覧会」の企画運営にあたった中国側の実務責任者でした。私は日本側のメンバーの一人として、傅さんと一緒に仕事をしたのですが、彼とは、初対面の時から気が合い、その後も、何かと相談し合ってきました。心から信頼し敬愛する、私の大切な友人であります。

1994年に傅さんと再会し(まし)た(。)頃、社会主義市場経済体制が進み始めた時期でした。その際、傅さんは、「中国の広告は必ずしも表現面でレベルが高くないし、なかには誇大広告もある。中国経済の発展に伴って、広告がますます重要になり、質の向上が求められている」と話されたのであります。

中国では、1992年に開かれた中国共産党の第14回党大会で社会主義市場経済が提起され、1993年の憲法改正で明文化された。「市場経済が即資本主義であるとは言えず、社会主義にも市場はある」という鄧小平主席の考えがこの政策の基礎となっている。)

当時中国は、社会主義・市場経済政策のもとで、急速な経済発展がすすむ中、マーケティングの理論研究の面では、ある程度進んでいました。しかし、私は、広告の実務面では、改善が必要な面が数多くあると感じておりました。

経済の発展の為の歯車、その歯車の潤滑油の役割を果たす広告が、人々に対する生活情報のインフラとしても、ビジネスの仕組みとしても、質の高い存在であることが、中国の更なる経済社会の発展には不可欠であると思ったのであります。

こう考えた背景には、私が電通に入社した1953年ごろの日本経済、広告界の状況があります。

私が電通に入社した当時の日本においては、広告の社会的な地位が必ずしも高くありませんでした。一部の広告主の玄関先に「押し売りと広告取りはお断り」というようなことが貼り紙されていたような時代でした。

振り返りますと、終戦直後、1947年の「日本の広告費」は僅か14.6億円、同年の日本の名目GDP1.3兆円でありました。それが半世紀余の間に、前者は約4100倍の6兆円に、後者は約385倍の500兆円にも成長してきたのであります。私はこうした華々しい広告業界の発展の礎には、旧い時代を生きた先達広告人の、志と情熱、卓越した先見性と行動力があってのことと、心より敬意を表しているのであります。

後に「広告の鬼」とよばれ、日本の広告史に残るリーダーの電通の第四代社長である吉田秀雄は、その当時、日本の広告ビジネスの近代化を強く提唱し、メディア、広告主とともに、広告ビジネスの近代化に努めておりました。

しかしながら、当時、日本には、満足な広告の教科書もなく、アメリカから英語の本を取り寄せて勉強したりしていましたが、正直言って、非常に苦労したのを覚えております。

私は、中国の広告界をこれから支えていく若い人たちが、かつて我々日本人がしたような苦労をしなくて済むように、何かお手伝いしたいと思いました。かつて中国から日本が学んだことに、ささやかなお返しがしたいと思ったのです。

折りしも、電通創立95周年の記念企画として、大学の広告実務教育の面で貢献する、交流事業を行おうと私は考えたのであります。そして、1995年の暮れ、私は、傅先生に手紙を書き、この交流事業についての意見を求めたのであります。

傅さんは、私の手紙に答えて、「ぜひこの事業を実現して欲しい。いま中国では、マーケティングや広告の質の向上が何よりも求められているのです」と、大いに賛同し、励まして下さり、実現のために大変なバックアップをしてくださいました。

そして、電通の提案に対して、中国の教育部、6つの大学、すなわち北京大学、中国人民大学、北京広播学院、清華大学美術学院、上海大学、復旦大学が異例のスピードで前向きに取り組んでくださり、96年秋から、「日中広告教育交流プロジェクト」が開始されることになったのであります。

私がここで強調したいのは、このプロジェクトの基本精神は、中国の古典「礼記」にある「教学相長也」(教学は相長ず)。「教えることは学ぶことであり、学ぶことはすなわち教えることである」ということであります。日本が一方的に中国に教えるという姿勢では決してありません。

私は、広告講座の講師として派遣する電通社員には、「君たちは草の根外交を行う、日中友好親善の民間大使である」と指示して、送り出してまいりました。

受講した中国の学生の皆さんは卒業後、広告会社、メディア、企業のマーケティング部門などに勤めたり、大学院に入って、それぞれ活躍されているとうかがっております。

また、講師をつとめた電通社員も、学生の皆さんの情熱に感動し、自ら真剣に講義に取り組み、一方で、中国の経済や社会の発展を学ぶ、大変良い機会になったと、報告してくれております。

同時に、6大学からは広告マーケティングを教える立場にある助教授クラスの先生方を、半年毎に6人ずつ東京の電通本社にお招きし、最新の広告事情について研修していただいたのであります。1年に12名ですから、この8年間で100名弱の先生方が研修を受けられたのであります。どの先生も帰国される際には、「ありがとう」という言葉を繰り返され、固い握手をしてくださりました。

日中両国で、互いに教えあい学びあった、志の高い広告人の輪が広がっていることは、広告界の先輩として、何よりの喜びとするところであります。また、こうした8年間の成果を引き継ぎ、中国で広告専門の大学を設立すべく、現在準備を進めております。

冒頭に申し上げましたように、1996年の9月に江沢民元主席にお目にかかった際、江主席は、「教育は国づくりの根幹となる事業です。我々は科学と教育をもって国を発展させることを方針にしています。日本経済が飛躍的な発展を遂げたのは、教育を重視した結果です。」とおっしゃっておりました。

私も、今後の日中関係において鍵を握るのは「教育」であると考え、日中交流プロジェクトの開始にあたっては、「実事求是」(事実に基づいて物事の真理を求める)こと、つまりは実学を重視した広告教育を目指したのであります。

中国に古くから伝えられた言葉に、「天・地・人」というものがあります。天の時、地の利、人の和のことでありますが、これら3つの条件が満たされたときに、それは成功するという意味を持っています。私は、今回のプロジェクトは、まさにその典型例になったと思っています。

 

 

オリンピックに向けたハード・ソフト面での環境整備を

 

さて、話題を変えて、「広告人」として立場から思うところを、もう一点お話させていただきます。それはオリンピックについてです。

中国は、2008年の「北京オリンピック」という国家的なビッグ・プロジェクトを控えております。日本では「1964年の東京オリンピック」が契機となって、新幹線や高速道路網といった交通・流通インフラが急速に整備され、高度成長を加速させる大きなきっかけとなりました。

オリンピックは、何十億人もの人々が同じ瞬間に夢と感動を共有しあう、人類が誇る「友好のスポーツ」であり、「平和の祭典」そのものであります。2008年は、国際社会に対して、中国社会を今以上に強く印象付けると同時に、中国の経済・社会が更なる飛躍を遂げる大きなターニングポイントとなることでありましょう。

 

私は電通の役員として、1984年のロサンゼルス大会以来、オリンピックに深く携わってまいりました。オリンピックには、公式スポンサー/サプライヤー権、公式マーク/ロゴのマーチャンダイジング権、放映権など、非常に複雑で多岐にわたる権利関係がございます。

ロサンゼルス以前、オリンピックの運営費の増加が開催にとっての大きな負担となっておりました。立候補する都市が少ない、辞退する都市が出るなど、オリンピックの存続自体が危ぶまれておりました。

こうした中開催が決まったロサンゼルスでは、赤字が予想されるオリンピックに対して、市や州、国の資金を投入することに反対する住民運動が起こるような状況にありました。このような状況で組織委員会の委員長に就任したのがピーター・ユベロス氏でした。

そこでユベロス氏は、「公的財源に迷惑はかけない」と宣言する代わりに、スポンサーから資金を集めるという方法を導入したわけであります。公式スポンサーやサプライヤーを集めると同時に、『イーグルサム』というマスコットを開発し、そのマーチャンダイジング権の販売を行いました。

当時電通は、サッカーを中心とするスポーツ・ビジネスに力を入れている時期であり、ユベロス氏に対して、日本でのスポンサー開拓に協力する旨を申し入れたわけであります。(電通の服部氏)ユベロス氏と連携しながら、日本企業に対して積極的な提案活動を行い、数社とのスポンサー契約を結ぶことに成功したのであります。(富士写真フイルム、セイコー、ブラザー等)

結果的に、このプログラムは大成功に終わり、日本のスポンサーの中でも、ロサンゼルス・オリンピック後にアメリカでの売上げが急成長したところも少なくありませんでした。

ロサンゼルス大会では、こうした仕組みが導入されたのは、アメリカのLOCLocal Olympic Committee)のみでした。ロス以降は、国際的な組織委員会であるIOCInternational Olympic Committee)の正式な資金調達の方法として採用され、今日に至るまでTOPThe Olympic Partners)プログラムとして運営されております。

こうした権利収入は、開催国の負担を和らげます。また、選手個人や参加国、特に途上国に過大な金銭的負担を強いずに、幅広い国の参加を促すことができる、といった恩恵がもたらされたのであります。

 

オリンピックという国家規模のビッグ・イベントには、交通・流通網や競技場をはじめとする様々な社会基盤の整備が必要であります。中国では、2008年に向け、インフラの整備が急ピッチで進んでいるとお伺いしております。

そして、オリンピックの開催に当たっては、ハードのインフラ整備と同時に、先ほど申し上げた様々な権利を取り扱うためのソフトのインフラ整備が非常に重要になるのであります。

著作権をはじめとする知的財産権は、国の競争力をも大きく左右するものとして注目されております。オリンピックに関する様々な権利に関しましても、グローバルな取引慣行があり、それに準じた展開が求められるのであります。

中国社会は、市場経済に本格的に足を踏み出してからまだ日が浅いということもあり、知的財産権などソフトに関する社会インフラの整備が遅れているようにも見受けられます。

北京オリンピックは、中国が、ソフト面での社会基盤整備を進める好機ということができると考えております。また、知的財産権をめぐる各種制度の確立と同時に、国民一人ひとりの意識改革も非常に重要であります。日本として、また電通としても、お手伝いできるところがあれば最大限にバックアップさせていただきたいと考えております。

 

 

運命共同体としての日中関係

 

2004年に入り、長く低迷が続いていた日本経済も、ようやく本格的な回復の兆しが見えて参りました。企業の必死の努力によって生み出された収益が、前向きな設備投資へと投下され始めているのであります。また、企業業績の回復とともに、少しずつではありますが、雇用・消費にも回復の兆しが見えてまいりました。

こうした日本経済の回復を下支えしているのが、中国向けの素材、資本財、消費財などの輸出であります。今日、世界経済における中国の影響力が大きくなる中、日中関係は「運命共同体」となりつつあります。

昨年、両国の貿易額は1300億ドルを超えたのであります。いままで世界で1000億ドル台の貿易額に達した二国関係は日・米、米・加、米・墨(メキシコ)、仏・独の4組にしか過ぎませんでした。ここ2年、米中貿易を上回るペースで日中貿易が伸びたことは、いかに日中関係が密接になったか、ということが分かるのであります。

かつて、「アメリカがクシャミをすると日本が風邪を引き、アジアが肺炎を起こす」と言われたことがありました。今日では、「中国がくしゃみをすると、日本が風邪を引き、世界が肺炎になる」といっても過言ではないと思っております。

 

そして、日中の関係強化は、経済面だけではありません。振り返りますと、1973年の日中国交正常化当時、日中交流に携わっていたのは、外交官や政治家、また一部の商社にすぎず、民間人同士の交流や相互理解はきわめて限られておりました。しかし、日中関係はいまや2000年の交流史上、はじめての「国民同士の対話の時代」に入ったと考えております。

 

最後に、先般、北京大学光華管理学院の院長であられる厲以寧(リー・イーネイ)先生からお伺いした「新・兎と亀」の寓話をご紹介したいと思います。

兎と亀が競争して、兎が先頭を行きます。途中、油断をした兎が居眠りをしている間に、亀がゴールをして、亀が勝つ、という話は皆様ご承知のことと存じます。

このお話には先があるそうです。実は、兎はこの勝負に納得せず、2回目の競争を提案しました。兎は苦い経験を活かし、一気にゴールを目指し、兎が勝ちました。

すると今度は亀が納得せず、3度目の競争を持ちかけました。亀が「この前の勝負は2回とも、君が決めたコースに従った。今度は僕が決めるコースを走ってもらう」と提案したところ、兎は、どうせ自分の方が早いからといって承諾しました。

3回目の競争が始まると、またもや兎が先頭を走ります。ところが、ゴール目前で川が立ちはだかり、兎は呆然と立ち尽くします。ようやく川辺にたどり着いた亀は川を泳ぎ、亀が勝ちました。

さて皆さん、4回目の勝負はどうなったと思われるでしょうか。兎と亀は4回目の競争にあたって、「こんな競争は意味がない、僕たちは協力して、お互いに優れたところを出し合おう」と意気投合しました。

陸では兎が亀を背負ってなるべく早く川辺に到着する。川を渡るときは亀が兎を背負って川を泳ぐ。2人で協力してなるべく早くゴールすることを目指すのです。これが「共に勝つ(Win-Win)」の関係であり、優れたところを出し合う相互補完関係で成り立つのであります。

 

私は、現在の、そして今後の日中関係は、こうした相互補完関係で進むものと信じております。

ここにお集まりの皆様は、日本で修士号、博士号を取得され、日本の社会・経済・文化に精通されているのみならず、日本そして中国に幅広い人的なネットワークをお持ちです。

今後、日中関係が親密になるほど、皆様の果たす役割がますます多くなっていくことと信じてやみません。皆様のますますのご活躍と日本華人教授会議の更なるご発展を、心よりお祈り申し上げる次第であります。

本日はご清聴、誠にありがとうございました。